『弥高神社』
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| 私達は、千秋公園にある弥高神社へいって勉強しながら調べて来ました。始め、行くときに電話帳で電話番号調べていたら、弥高の「いや」という漢字が二つありました。その漢字は、とても難しそうでした。そこで私達は、弥高神社の宮司、北嶋さんにこのことを話して見ました。そしたら、北嶋さんが、「これは昔の字だよ。」と、教えてくれました。私達は、「昔の漢字があるということは、それほど昔に建てられた神社」と考えました。そうすると、なにか深い歴史があると思い調べに行きました。これが、調べようと思ったきっかけです・・・。 明治十四年秋田市八橋に、平田神社を倉建し、平田篤胤大人命(ひらたあつたねうしのみこと)をまつったのが始まりです。その後大正五年前は、「八橋日吉八番神社」だったのが、このことがきっかけで名前を変え「弥高神社」になったそうです。今も、元の神社は、ありますが古くて昔の重みを感じるような気がします。それは私達だけでしょうか・・・。「君たちのお父さんお母さんは、社会科見学と言えばここに来ていたよ」とも教えられてでも今、私達は、行きませんよね。昭和三十三年には斎館直会殿が建設されて現在結婚式場として広く県市民に、親しまれています。 身近な、神社のいろんなことが分かったのでこんどは、どこかほかの世界の神社を見て、いろんなことを知りたいです。 (綾香) |
〜関係する人物の紹介
平田篤胤
幕末の薩摩や長州の志士たちは、篤胤の著書を壊にいれて常に愛読し、志気を鼓舞していた。東北の雪深い秋田からただ独り江戸へ出て学問をもって身を立て、その思想が、やがて世の中を突き動かしていく。 幕藩体制が崩壊して明治維新という近代日本誕生の大きな節目の時期に、思想的なバックボーンとして大きな役割を担ったのが、偉大な国学者であり、実践的教育者であった平田篤胤その人なのだ。
苦難の旅立ち
佐竹藩百石取り大番組頭の大和田家に生まれた胤行(のちの篤胤)は学問を志し、20歳の時江戸へ上る。
正月の8日、家出同然に旅立った胤行にとって、江戸までの道のりは、苦難の連続だった。旅費が乏しいため野宿を重ねながら、それでも吹雪の中をひたすら歩き続けたとうとう無一文になって渡し舟にも乗れず、ついに、寒中水泳で川を渡ったこともあったと言い伝えられている。
「平田篤胤」と名乗るまで
勉強のための上京だったが、仕送りがある筈もなく、働くことが優先、苦学の毎日だった。そしてやっと江戸城近くの呉服屋へ就職出来た、たが、これが向学の胤行に幸いだった。
仕事のかたわら、毎日大きな声で漢書を読んでいる胤行の勉強ぶりが見込まれて、備中松山藩士、平田篤穏の養子となる。このときから「平田篤胤」と名乗ることになった。篤行25歳のときだった。
〜年表〜
(1776) 佐竹藩士大和田祚胤の四男として久保田城下(秋田市)に生まれる。
(1795) 江戸へ上る
(1811) 「古史成文」「古史微」を著す。
(1843) 城下亀ノ町にて死す。68歳。
国学の四大人
平田篤胤 (1776年から1843年) 本居宣長
(1763年から1828年) 賀茂真淵
(1697年から1769年)
荷田春満(1669年から1763年)・・・・の四人を(国学の四大人)と言うが、国学とは一体どういう学問なのか。
篤胤は、たまたま手に入れた本居宣長の著書「古事記伝」を読んで『日本には漢字や儒学、仏教が伝わる以前から存在する独自の文化や、日本人を日本人たらしめる本来の精神・道(宣長のいう真心{やまとごころ})がある』ことを知り、「これこそ、自分の求めていた学問{国学}である」と覚た。
このあとの、篤胤の熱心な研究ぶりは文字どおり寝食を忘れるほどの猛烈さで一ヶ月のうち、ふとんに入って眠る日が六晩だけといういともあったという。
篤胤について(「天覧叡感」の栄誉)
篤胤の研究分野は、古史・各宗教・易学・暦学・医学・文学・兵学・蘭学など驚くべき広範囲にわたり、しかもどれも徹底したもので、やがてその名声は京都御所へ著書を献納することとなって現れ「天覧叡感」(天皇がご覧になられたと言う意味)の文字ょ著書に書くことを許されている。篤胤の著述は、代表的なもので呵妄書・古史正文・古史徴・霊能真柱など百部数千余巻におよび、門人もね武士から商人、庶民に至るまで五百人以上にもおよんだと言われる。
篤胤の思想は、封建制度に立脚する江戸幕府にとって、危険なものと警戒され、やがて幕府から 「著述差し止め・国許退去」の命令がくだり、秋田へ帰藩した。あの21歳の正月、江戸を目指して旅立って以来、46年ぶりに故郷の土を踏むことになったのだ。
それから2年後の天保14年、亀ノ町の自宅で68歳の生涯を閉じた。
<感想>
私は、平田篤胤という人物を調べてとても、おもしろいことが分かってよかった。
あといろいろと、昔の古い言葉や読み方は、あまり分からなかったけど、またこんど、このような歴史のことを調べてもっと歴史を知りたいと思う。
(華)
平田篤胤
〜佐藤信淵大人命(さとうのぶひろうしのみこと)〜
1769〜1850
信淵の生い立ちは、1769年に始まった。6月15日、雄勝群西馬音内前郷村(今の羽後町)の医学の家で1人の男の子が生まれた。その名は、佐藤百祐である。馬鹿フジ屋敷きの馬鹿オジと言われむらの子供たちに馬鹿にされていた。少年時代は、近所の子供達といたずらするわんぱくものだった。そんな百祐だったが、本を読ませたり、文章を書かせたりすると、人が変わったように勉強し始めて大人も驚くほどすごかったと言う・・・。武芸にも優れていて「佐藤の神童」と近所の評判を集めていた。信淵は佐藤家に代々伝わる学問を大成させた学者として有名であり、その学問は後世の人に大きな影響を与えています。
年表
1769年 羽後町に生まれる
1781年 父、信季に従い北海道へ行く。
1784年父の遺訓に従って江戸へ上り、宇田川玄随へ入門。
1797年 江戸京橋に医業を開く。
1807年 徳島藩の兵学講師となる。自走火船を考案する。
1815年 平田篤胤に入門する。
1816年 江戸追放となり諸国遊禁す
1829年 「農政本論」「草木六部耕種法」の著述を完成し、隊に家学を大成する。
1846年 江戸追放をゆるされる。
1849年 病になりながらも著述を続け、著書五巻を完成させる。
1850年 江戸で死す。八十二歳。
佐藤信淵
感 想
このような歴史がありながら小学校、乳児園、幼稚園、老人ホームの具体的な建設計画までも建てた人物である。また、あの首都、東京の名付け親にまでなったと言う。あの長く続いた「江戸」の名前を変えた男である。かなりの勇気のあるものの行動だ。信淵は、親子四代までにわたっ
て学問を解いたのだから、すごい協力があったからだとおもう。これをしらべてみてこんな身近な秋田にすごい人がいてかっこいいと思った。
(綾香)