| 校歌の作詞者佐藤はじめさんのこと | ||
| 校歌の作詞者は佐藤はじめさん、作曲者は当時秋田大学教授の佐藤敏雄さんである。佐藤はじめさんは、本校のみならず、中学校の校歌の作詞もなさっておられる。この機会にこの方のことを紹介しておきたい。 佐藤はじめさん、本名佐藤一、鵜養の方である。1907(明治40)年6月20日生まれ、1996(平成8)年9月12日没、享年89歳。昭和9年に岩見三内村の役場職員となり、昭和40年3月に合併後の河辺町役場を退職するまで地域の行政に貢献された。 昭和初期から短歌や俳句を詠まれ、特に歌人としての名は高い。昭和42年7月から平成5年9月までの26年にわたって秋田さきがけの歌壇の選者を務めたほか、県歌人懇話会顧問など、長く秋田県歌壇の指導的立場にあった。昭和53年に、県芸術文化章受章、62年に県文化功労者、河辺町功労者として表彰されている。 |
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| 昭和43年2月に、歌集『峡の声』(かいのこえ)を『寒流社』から出版されている。そのあとがきに、歌や俳句の道に入っていった経緯を記しておられる。 それらによると、昭和の初め頃、村に俳句や短歌を詠む佐々木紫朗、森谷造酒、佐々木啓一という先輩がいて刺激を受けたのがきっかけであったようである。いくつかの歌誌に投稿して学んだ。あわせて俳句も手がけ、岩見三内に硯水会という句会をつくり、木村非弗(ひぶつ)、安藤鹵舟(ろしゅう)、安藤和風などから指導を受けていた。 |
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| 硯水会に依った同人は、この地域の人たちで、それぞれ俳号を持って句作していたようである。 たとえば、昭和8年の秋には 秋の暮どちらを往かん岐れ路 佐藤草舎(はじめ) 秋の暮悲しき手紙来たりけり 佐々木枯山花 白い雲頻りに飛ぶや秋の暮 佐藤 木耕 秋の暮小鴨立ちたる山の湖 山上 雨山 木々の葉に風音澄むや秋の暮 三浦 鬼遊 冷酒の腹にこたえて秋の暮 石塚 夕水 堂守の薪を背負いて秋の暮 石塚 古堂 実る草末に花あり秋の暮 石塚 霊峰 停車場に汽車待ち久し秋の暮 佐藤 菫流 四五本の黍にある陽や秋の暮 佐々木北龍 など、「秋の暮」という課題でそれぞれが作句している |
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| 昭和21年、中央歌誌「沃野」に入会、まもなく同人となる。昭和25年5月、「寒流」の創刊に参画し、同人としてその後の歌人としての経歴を重ねられた。 『峡の声』に「退職」と題して、 祖父祖父(ぢぢ)と ふたりの孫ら傍離れず 家に居ることまれなりしかば 腑抜けたるごとき 安堵(あんど)かさびしさか 信仰もたねばただ眠るのみ 陰(かげ)り早き 峡(かい)の路来てひらけたる 花野の上の陽はまだ温(ぬく)き |
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さきがけ歌壇の最後の選にあたった平成5年に総評として次のような文を書かれている。 「総じて思うのは,歌は自分のために詠う自分のものであること。それは人生の記録であり自作を大切にしたい。ぞんざいに詠み捨てず,機智のみの言葉にとらわれず,みずみずしく自在に何回も添削に苦心したい。一番大切なのは助詞で,一首を呼吸づけることなど,一字の使い方により光彩効果が出る。誰もが知っている事ながら,今後も励んでいきたいと思うものである。」 さきがけ歌壇の最後の選にあたる際、平成5年7月2日付けの「選者が交代します」に近作として紹介されている歌は 縄飛びのズック脱げしもかまわずに 勢(いきお)う童らに花びらの舞う |
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また、へそ公園の歌碑に 産卵の鮭のぼりきて陽を弾く 母なる岩見川のせせらぎ |
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