5月30日授業研究会における佐藤雅彰先生の助言
授業研究会の中での佐藤雅彰先生の発言を抽出。
文中、子どもの名前はすべて仮名です。

5月30日 4年 算数 「がい数」 (本時1/5)
授業計画

活動と予想される子どもの姿 子どもの学びを支えるために
1 デジタルカメラの値段3万円とこまち球場の観衆3万人の違いを考える


2 こまち球場の観衆3万人の実際の人数について考える。


3 こまち球場の観衆を3万人(概数)としたわけを考える。

4 本時の学習を振り返る。
・子どもたちがよく目にする広告や新聞の見出しなどを提示し、2つの数値の違いについて考えさせるようにする。
・隣同士やグループで話し合う場を設ける。
・子どもたちが考えた数を板書し、それぞれの数に対する意見交換をする。
・数の範囲を考える手助けとなるように数直線を準備する。
・概数にすることでよい点は何かを考え、概数を用いる目的をおさえる。




(SND先生の声の大きさにかかわる発言を受けて)
子どもの声を聞こうとすればするほど、声は小さくなる
 なぜ、声のテンションを下げろと言っているのかというと、先生は前へ前へ、予定したところへ進めようという意識で授業をしようとする。今日はこの時間の中でこれだけの学習内容があってそこまで終わりにしなければならない。そっちのほうが先に立つのですね。
 でも、今日の先生は、子どもの声をしっかり聞いて、子どもに寄り添おうとする。すればするほど、声は小さくなってつぶやきが拾えるようになる。子どもも安心なんですね。あんまりパッパッ言われるより。まあ、先生の中には、大きな声でがなり立てる人がいますから、耳が疲れるんですよ。前に前に行こうとするとどうしても声がおおきくなるので、今日の授業のように、子どもの声を聞こうとすればするほど、声は小さくなる。



(戸米川小の先生の「協同的な学びとは?」に応えて)
わからない子がちょっと相談する協同的な学び
 たとえば、2人でお話ししたときに わからない子がちょっと相談しますよね。これは、一つの協同的な学び。もともとぼくらはグループ活動といった時に2人以上をグループとします。中学校はとくに3−4人がいいだろうと、結果的にはいいというふうになってきた。5人というのはちょっと・・・、今日は先生が入ってうまく行ったと思います。
  一人でわからないとき、一人で解けないときに仲間に相談しやすい状況をつくってあげる。 そのなかで、先生が一方的に話をしているとなかなかわからないという、そういうことが言えるようになる。
 小学校の低学年は、仲間に意識が行かないんですね。「先生あのね」の世界だから、自分の考えていることを先生に聞いてほしい世界だから。だから、私たち佐藤学先生と一緒にやっている仲間は、低学年はまず隣り合いの関係からいこうと言っている。

隣り合う」と「向かい合う」
 隣り合う関係というのは、比較的語りやすいんですよ。というのは、顔を直接見ないですむ。ところが、向かい合うというのは非常にきびしい状況に追いやるんですよ。だから、低学年はなかなかむずかしい。対面というのは難しい。 
 だから、3年生以上で4人グループをやったときに気を付けなければならないことがある。それは、一方で話しやすいということがあるけれども、面と向かったときにコミュニケーションがうまくとれないという子どもがいるんですよ。4人グループというのはきびしい状況に子どもを押し込めるのだということを 忘れないでほしいのです。だから、今日のような男の子が出るのですね。自分の言ってることを相手がわかってくれないという状況が出てくる。でも、先生方がビデオで撮ってわかるように、泣き顔が途中から笑顔になって、これがこうなって、こうなって、起きあがって笑顔になってきたわけです。だから、あれは解決したなとわかるわけですけれども、もし、解決しなかった場合はだれが責任をとるかというと、教科の先生が責任をとらなければならない。 グループに任せて、「グループで助け合って」ではだめなんです。うまく交われない子どもたちをちゃんと見てやらなければならない。
 グループにしたときには話しやすい一方で、話しづらい子どもが出てきますよ。その子を先生方がちゃんと見てないとならない。

話しやすい雰囲気があるクラス
 実は、話しやすい雰囲気があるクラスは、教室に入ったとたんにおだやかなんですよね。安心していられる。よくしっとりしたクラスとか、柔らかな関係があるクラスですねと私たちも使いますけれども、だいたいその、いくつかあるんですけれども、まず、しっとり感がある授業というのは比較的仲間に相談しやすいという雰囲気があるクラスなんです。困ったら誰かに聞けばいい、それが安心感として出てくるんですよ。それが、先生が「おい、そこんところ、何でしゃべってる!」と言うんじゃなくって、ちゃんとそれを見届けてあげている、教師が子どもをキチッと見てあげられる、そういうクラスほど安心して、そこに自分の居場所があって、困ったときに助けてもらえて、何を言っても安心。で、今日けっこう、何でも言ってますよね、そういうことだけど。



(養護教諭の「コの字型の机の配列が板書を写すのに不都合でないか?」という発言をきっかけとする以下の問答を受けて) 
授業者SRT 話し合いを大事にしたいので、基本的にコの字型の配列をとっている
→ TKH 私も字を書くとき斜めで見るから目によくないと言われたことがあるが、そこで書くときは机を動かしている 
→ KMD 書いてしゃべらせてといういそがしい授業ではきびしい体形だろうが、コの字はじっくり話し合う授業には大変適していると考える。
→ 原田岩中校長 いったん発した言葉は消えてしまうから、大事なことみんなで確認したいことは文字にして目で見える板書として残すというのが板書の意味である。

課題は最初に明示しなければならないか?
 板書にもいろいろあって、さっきの先生(KMD)の言うようにドーンと書く場合もあるのですよ。あの、大きなテーマで。 そうではなくて、小さな問がいくつかあって、で、追っていくというのもあるんでね。今日は、SRT先生のは、どちらかというと最初の3万円と3万人というところが、あれが1つの課題ですね。
そこの中から実は、がい数のところへ持って行きたいがために、そこから子どもたちが次の課題のところで実際に何人観戦していたのかなという、あすこからぐーんと広くなっていくわけですよね。ねらいが、見えてくる。だから、途中から課題が出てくることがあるわけですよね。

学びというのはわからないことが目の前に起こらなければならない
 だから、今日は、こんなことをやるぞと、今日は連立方程式を解くとそういう課題を示して入る場合もあるわけですけれども、それはそれ。
 実際の子どもたちは、学びというのはまず、わからないことが目の前に起こんなければいけないわけですよね。今日はそういう意味では一番最初でずれるわけですよね。3万円と3万人、これでいったい何を考えさせようとしているのかというところですよね、これで先生はずれを起こそうとしているわけですよね。これでいったい何を考えさせようとしているのかというところですよね。単位だとか、人数だとかお金のことを子どもたちは言っていますね。それで、だんだん聞いていくと変わっていくわけですね、
 何でもかでも必ず書かなければならないということはないと思いますね。今何の話をしているよ、ていうことで、まあ岳陽で大事にしてきたことは、今何を話し合っているのかという問いかけはきちっとしようということですよね。そうするといちいちいちいち黒板のものを写すとか写さないとかいうこということよりは、今何を解決していようとしているのかがまず明確でないと、後から「何だ、そういうことを先生、考えろと言ったのか!?」というのが時々あるんですよ。だから自分の書いたものと違うから。今日はそういうことなかったので、問いが明確になっていて良かったですね。

コの字型の座席配列の意味
 座席がコの字というのは、実はコの字というのは理由があるんですよ。板書するということを考えたら確かに 例えば、国語で書写なんていうときには前向いていた方がいいわけですよね。 お習字の時間なんかは。
 ここでやろうとしている学びの中にですね、他者との出会いと対話というのをやっているんですよ。要するに、仲間で、共に、先生と子どもみんなで学んでいるそういう時間をとりたいわけです。それを協同的な学びていうんです。今までは、こういう考え方の人はみんなこちら向きなんですよ。教師は教える人、子どもは聞く人ていう。教師が教えるという 立場だと、書きたくなるわけですよ。 たくさんこうやって。「はい、これおぼえなさい、これおぼえなさい」ということ。そうするとコの字よりも、 聞くだけですから こういう講義型のほうがいいわけですよ。 
 ここの場合は自分の考えたことを言わせているわけですよね。話し合う、語り合うということが中心ですから。そうすると、講義型の一斉型の並び方よりもコの字型の方がいい。

先生の立ち位置 子どもと子どもをつなぐ
 できれば、コの字型にしたときは先生の立ち位置が、先生の立つ位置が、今日もそうですけど、全体でやっているときに教卓の位置にいて動かないわけです。あれはだめです。
 コの字型にしたときは子どもが子どもに語らなければいけないわけです。先生がここにいると子どもはみんな先生に言っているわけです。先生を媒介にしてこっちへ行く、だからいつもこういう流れなんですね。 今日、お話の中でね、たとえば、「私もゆきこさんに同じなんです」ということを言っている。そうすると佐々木さんという人かな、佐々木さんはゆきこさんに言ってあげればいいわけですよね。先生に言わなくたっていいわけですよ。
 反対の場合もありますよね。「3万円以上は全部はずす」と言っていて「3万円以上はいい」と言う子もいるわけです。それは、先生に言う必要ないわけですよ。「3万円以上ダメだ」と言った子に言ってあげてほしいわけですよね。そうするとコの字のほうが「○○さん」というふうに語りかけられるわけですよね。で、言われたときにその子も、実はこの子を見てあげてほしいわけですよね。
 そうすると、先生はどうしたらいいかというと、佐々木さんがゆきこさんに言ってあげてるとすれば、先生もゆきこさんに近づいてあげればいいわけですよ。で、「聞いた?ゆきこさんどう?」て、そういう対話がほしいわけですよね。今日はそれが、先生、欠けていた。せっかくゆきこさんに言っているわけですから、たぶん違う場合、ずれているわけですから「違っていたけど、どう?」て、で、「でも私は・・・」て、で、「先生にはでなくて、こっちに言って」て。
 そのへんはその、書くっていう場合は別の立ち位置でいいのではないか。

斉藤喜博 メモ
 それから、若い人が多いのでご存じないとは思うんですけど、斉藤喜博という方がいますよね。国語の方では有名な方ですけど、斉藤喜博先生は、著書を見ると、あまり板書のことをこだわっておられませんよね。『教授学』と言う本の中では、『授業』でもそういう本の中ではあまり、あの、こだわっていない。それよりも、途中でメモるということを重要視する、友だちどうしの話の中で、ああ、これは重要だなということをそれをメモるということを非常に大事にされていた。うん、そして、最初に自分が考えたことと友だちと話し合いをしている時にメモったこととそして最後にもう一度自分なりの考えを持つということを斉藤喜博さんよくやりますので、そうするとその子のノート見るとその子の歴史が見えるというふうにおっしゃっていますね。
 先生方よく黒板を見ると今日の授業の振り返りができるってよくおっしゃるんですね。小学校の先生方が。あれ、先生だけが振り返っているんですよね(笑)。
 子どもほとんど振り返ってないんですよ。子どもは、今日はだれだれちゃん、こう言ってこう言って最後まとめてくれていますけど、ほとんど聞いちゃいない。子どもってその場その場で考えていきますから・・・。振り返りは黒板よりもノートで振り返ったほうがいい。



 (戸島小佐藤教頭先生の「3万を使うか3百が適当であった」かという発言から、課題提示の仕方をめぐってのいくつかの発言の後で、子どもに添った授業をすることについて話された。)
課題の与え方について話すのか?
 大事なことはね、課題の提示の仕方が子どもにとってどうだったのかという見方でいくと、今意見が分かれているわけですね。よかったという人もいるし、えーこういう問題があったのではないか。 ○○先生が言われること、3万以上ダメだということがどっから出てきたのかというのは先生のおっしゃるとおり(カメラの値段3万円を出したことが、3万を越えてはいけないという子どもの考えに影響を与えたという)でしたので、そういうそのつまずきというのはあると思うのですね。
 そういう,課題の与え方によって、つまずく子もいるけれども、大半の子どもは何もつまずかないでいったということもありますね。教科書ではこう書いてあるとか。いろんなやり方があっていいいと思うんです。10人いたら10人のやり方が出てまいりますから、だから、ここのこういう話し合いの中で気を付けなければならないのは、あれはよくなかった、こっちのやり方でやったほうがいい。だれも見てないんですよ。それがいいかどうかってのは、教科書であった2万9千いくらというのをやって、子どもたちがわかりやすかったかというと見ていない、わからない。

課題のよしあしではなく、子どもの良さやつまずきを話し合う
 概数というのは、もともと、時系列の中で変わっていく場合使うんですね。たとえば、人口なんていうのは毎時間、毎日変わっていくんですよ。そういうときに、ほんとの値ってないわけじゃないですか。1時間経てば人数増えていくかもしれない、減っているかもしれない。だからおよそで言わなければいけない。  もともと概数というのはそういうところから出てきているわけですから、まあ、だいたいでいいだろうていう。3万円というと3万円で買わないと29000円だという広告出ているのに3万円だったら怒りますよね。ぜひあの、こういうやり方でと言うよりも、この授業の中で、この課題で、子どもはどこでつまずいていて、で、どういう良さがあったのか そういうことを話し合っていくことですよね。
 先ほどあったように3万というのは、先ほど出たようになぜ引っかかったのかというふうに考えた人は、この3万を考えるべきだと思うんですね。だから、猿田先生が次やるときは、あるいは同じ学年で何人かでやっているような時には私はここちょっと変えてみようかしらって、それがまた、自分の財産になるそういう風にやっていくといいのかなと。

子どもに添った授業をするということ 「母に添い寝のしんしんと」の授業例の紹介
 だから、よく国語で、いちばん困るのはですね、「先生の解釈は違います」というのがあるんですよ。これ困りますね。国語なんていうのは解釈なんて違っていいわけですよ。いろんな解釈があっていいわけですから。
 たとえばこの間、斉藤茂吉の「死に近き母に添い寝のしんしんと 遠田の蛙天に聞こゆる」というそういう詩をやったんですよね。その時に、「しんしんと」という言葉が問題になったわけです。「母に添い寝のしんしんと」で、まあ「しんしん」ていうのはどういうことだろうか、そういう話し合いになった時に、その先生は先生で持っているわけですよ「しんしん」というのはこういう風に解釈する。だいたい国語の先生はそれに近づけていくんですよ。 自分の解釈に引っ張っていく。
 ところが、その先生は、子どもたちの最初の言葉を聞いた時にびっくりしちゃったわけですよ。何かというと、子どもがですね、「しんしんとという言葉は、今まで私は雪がしんしんと降る、そういう風に使うと思ってきた。茂吉は、冬でないのにしんしんと使っている。すごいと思った。」
 そこで、彼女真っ白ですよ。そんな意見が出ると思わないから、どうしようかとそこで焦るわけですよ。
「はい、ほかに」って、やれなくて止まっちゃうわけですよ。「ああ、すばらしいね、ほんとだね、はい、ほかに」こうやっちゃうわけですよね。そういう先生が多いんですけど。
 その時彼女は 「ああ、そう、じゃ時期はいつ頃なの」「わからない」そういう会話ですよね。そのうちに「季節じゃないんだよ、時間が止まっているんだよ」といいはじめて、そうしたら「違う、逆に時間が進んでいるんだよ」。もう、ずれるんですよね、もういろんなのが出て、で、先生はますます困るわけですよ、こっちは時間が進んでいる、こっちは時間が止まっている。
 そこで、その先生、結局自分の考えていたこと全部捨てちゃったんです。 最初に「しんしんと」をどうやろとしていたかというと、実は辞典を用意してあったんですよ。辞書を用意してあって、子どもたちが「しんしんと」ってわからなかったら、辞書を引いて何て書いてあるか、そうすると一発ですね、みんな同じになりますから。(笑い)やろうと思ったけど、本人は忘れちゃったというんですよ。自分が真っ白になっていますから。これが出てきたら辞書を渡すっていう自分のメモに書いてあったことを忘れてしまった。大成功であったですね。(笑い)それで、子どもたちはいろんな話をした。それでぼくはいいんだと思いますね。そういう話し合いをしていけるといいなああ。だから、一つにまとめるとか一つにまとめないといけないとかいうことでなくていいですね。

子どもに添った授業をする→ずれを俎上にのせる
 SRT先生の授業でも 子どもがつまずいているわけです。そのつまずきがさっきの3万以上までと言ったところですよね。子どもたちが「3万以上はダメだ」と言ったのがいますよね、けっこう。そしたら、「いや、3万10と3万13は、いい」とか言われてましたよね。弁護し始めた。「でも5万にしちゃダメだ」と言ってましたよね。でも、子どもたちの中では3万はクリアした。3万を越えてもいいんだなあて、友だちの話を聞いて乗り越えられた子もいるし乗り越えられないで終わっちゃった子もいるでしょう。
 そうすると乗り越えられないとすると、先生の扱いが、3万以上はダメというのと3万をちょっと越えたのはいいよという子がいたんですよね。明らかにずれているわけですから、そのずれを先生が意識して話し合いの俎上に持って行かなきゃいけない。2つ意見がずれているけどどう思うと言わなければいけないのに、どんどん意見言わせて今日終わっちゃったわけですよ。かなりいろんなところで荒っぽいことをやっていると思うんですよね。でも、今日は1時間目だからそれはそれでいいと、猿田先生は考えているわけですよね。

「早く行けよー!」
 ぼくの考えだと今日はいろんなことが出てきたから、「もっと先に行けよ!」と思っちゃうけど、自分のクラスの子どものことをいちばんよく知っている猿田先生は、今日はこれで十分でないかと。はたから見るとね、中学ではそうでしょう中学ではありそうだから 、「早く行けよー!」と思っちゃいますよね。 それは中学の先生はがまんできない。



(研究会の締めくくりの指導助言)
(1)一巡しての印象
たっぷり子どもの話を聞いている低学年
 20分ということですので、まとまった話はできませんが、今日のSRT先生の授業を通してどんなことを学んだかということを話したいと思います。
 その前に、4時間目に全部のクラスを見せていただいたのですけれども、1年生から友だちの話をよく聞ける子どもたちだなあというふうに思いました。普通ですと1年生あたりは、なかなか今の時期、落ちついて席に着いていないというのが多いですね。足下見てますと、ちゃんと地に足がついている。それが落ち着きになってくるのかなあというふうに思いますけれど。どの先生も仲間を意識されている。特に1年生2年生あたり見ますと、子どものところに近寄って、子どもの話をたっぷり聞いてあげる、そういう姿があるんですよね。あれが安心できるのかな。

高い課題に挑戦させている高学年
 上級生になってくると、5年生でしょうか、社会科ですけれども、レベルの高い課題が出ております。この程度の子どもたちだからこのくらいの課題でいいというように課題を下げないで、上級生の場合はかなり高いレベルの課題を与えているんではないかというふうに思います。ただ、高いレベルの課題を与えた時は、当然いわゆるできる子どもが食いついてきますけれども、できない子どもが放り投げることがあるんですよね。したがって放り投げないように教師がやはり、その子たちにも学びの中に参加できるような形の発問だとかですね、ヒントだとかプリントだとかですね、 そういうものを用意してあげないと「今日は高いことをやっているからいいんだ」というわけにいかないのですよね。そういうことを見させていただきました。

(2)SRT先生の授業
■子どもたちの思考を予測して課題を与えている
 SRT先生の場合は、課題を与える時に、たぶん、この子たちならばこう考えるんではないだろうかということを考えておられるような気がするんです。これって非常に重要なことです。
 だいたいの先生がたは、指導案を考える時に、課題を出して、で、次にこうして、次にこうしてという流れを考えますね。教師の論理で考えますけれども、SRT先生の場合は、たぶん、この子どもたちにこれを出した時に、子どもたちはどう見るだろうっていうことを意識されている。これが子どもを理解するってことですね。
 授業の前に教材解釈っていうのが大事ですよっていうけれども、子どもがどう考えるかっていうところまではあまり教材解釈の中に入れていないことが多いですね。

■教師の論理による教材提示の例(社会科の例を通して)
 中学校の例で申し訳ないんですけれども、社会科で南蛮渡来の図というのがあるんですけれども、(図を描いて示す)ここが海、こっちが陸地なんですね。ここが道路、ここに小屋があるんですけれども、小屋の中にいる日本人が、ここに立っている西洋人の行列を見ているという図です。
 この先生はこの資料を出した時に、『日本人が小さくなって外国の南蛮人を見ている』、そこに注目されたわけです。この資料を出した時に、「この資料見て気づいたことは何ですか」と言っていながら、子どもがどこを見るかということは考えていない。
              南蛮屏風  狩野内膳筆  神戸市立博物館蔵

子どもたちの気づき
 最初、子どもが気づいたのは、ここに南蛮船があるんですよね。ここを見て「サーカスやっている」って子どもは言うんです。「この上のマストのところでサーカスやってる」って。
 で、その先生どう言ったかっていうと、「うん、そうだね。うん、陸の方考えてみてよ」て(爆笑)。呼び水です。で、子どもたちはまた、小屋の方を見ないで、ここを見て 「先生、黒人が荷物運んでいる」ってまた言うんですよ。「すごいねえ、そうなんだけれど、もうちょっと上を」(笑い)もうちょっと上をと言ったら、子どもたちはですね、「前の方でイヌが首輪を付けているよ」。・・・子どもたちはですね、すごいことを気がついているわけですよ。
 でも、教師は、この資料を出したら、『日本人が小さくなって外国の南蛮人を見ている』ということを出したいわけですよ。だから、子どもから出てきたことをみんな無視しちゃう。
 マストのうえではサーカスやっているんじゃなくて、奴隷が危険な仕事やっているわけですよね。ここのところは黒人が荷物を持って運んでいる、つまり奴隷制度があったってことを、子どもたちは、言葉としてはないけれど、気づいているわけですよね。それから、イヌに首輪があるってことはペットとして飼われていたってことなんですよね、その当時。で、ここに(日本の)イヌがいるんですけれど、日本のイヌはみんな放し飼いなんですよね。そういうことはちょっと先生は勉強しておくといい。

『聴く』ことと『つなぐ』こと 
 私たちは教師の仕事ていうのは、『聴く』ことと『つなぐ』ことと『戻す』こと。子どもの声を聴くということですね。聴いてつなぐ。
 先ほども言ったんですけど、子どもが教師に語った時にできるだけ子どもにつなげてあげる。全体でやっている時に、意外と先生たちは下手だと思います。
 だから、子どもの発見が出てきた時に、「すごいよね、だけどサーカスでないんだけど、これはどういう人かな?」ときいてやればいい。もしかすれば「奴隷かもしれないよ」と出るかもしれないですね。出たら、「すごいね、奴隷制度があったんだね」と、一応それは解決しちゃうわけですよ。で、ちっちゃな質問が、ポッと解決できる。
 イヌの話だって「ペットなんだよね」って。儲かったような気になるじゃないですか、今日は余分な勉強ができたっていうね。どんどん解決してあげればいいわけです。そして、つなぎながらねらいに持ってくればいい。

『戻す』こと
 であの、先ほどちょっとぼくも間違った言い方したのですが、教師が発問して子どもが答えた時に、できるだけ教師が『つないで』あげるということですけれども、教師が入っちゃいけないということではないですよね。入らないといけないこともあります。特に、子ども同士で話し合いしてるとグジャグジャ話し合って、何か同じレールの中を堂々めぐりして廻っていることがあります。そんな時は、「じゃ、この場合どうするの」っていうふうに、先生が入り込むことが大事です。
 子どもたちの話を聴きながら、「はあ、どうもこれ、こんなところでグジャグジャやっているな」と「ここ行かないな」という時には、本筋に持って行く手だてを考えなきゃいけないわけですよね。だから、子どもたちの話を聴きながら、授業を前に進めることもやらなきゃいけない。それを『戻す』というのですけれども。
 だから、こっちの流れになっているんだけれども、やっぱりこれは元に戻さなければならない。

もちろんずれることも大事
 先生はこうやって一つに考えるわけで、それが、話がちょっとずれてる、で、ずれて、横道にそれて、もちろん、横道にもそれていってほしいわけですね。だけど、いずれ 戻さなければいけないわけですから、どこで戻すかっていつも考えていなくてはならない。これ間違えるとずーっと行っちゃいますからね。
 だから、この『戻す』ということを、どこで『戻し』たらいいかということ、この『聴く』ことと『つなぐ』ことと『戻す』こと、これが教師の最大の役割なんです。これがじょうずになっている人は、授業がじょうずだなって言われると思うんですね。
 で、これ(横道にそれること)を切ってしまうとつまらないですよね。一直線にいってしまうと。これをよく私たちは「授業は成立しているけれど、子どもたちの学びは成立していない」という言い方をするんですね。
 でも、あまりにも子どもの学びばかりやっていると、ねらいを見失ってしまうことになりますから、その辺のバランスというのはものすごく難しい。
 ぼくも、こんなに簡単に言っているけれども、自分が教師の時に、まあ、校長の時にも時々授業をさせてもらいましたけれども、そんなにうまくね、満足行くなあという授業やったことないですね。いつも失敗だらけ。
 それでも意識してやっているのと意識してないのとでは全然シフトが違う。で、まず、これを教師は意識してほしいということです。

今日の授業に戻ると
 今日の先生の中で課題のことは、そういうことですよね。子どもが非常によく考えて、だから、3万円ということは途中でどっか消えてしまいましたよね。で、全部こちらに来てしまいましたので、それは、ちゃんと先生予測していたんじゃないでしょうか。ここまで来ればもう、ね。

『学び合う』の『合う』ということ
 2つ目は、佐藤学先生の中で『学び』というのは、『学び合う』ということなんですけれども、2つあるわけで、ここで切れるんですけれども、『学び』ということと『合う』ということは、やっぱり違うわけですよ。
 たとえば、問題解決的な学習といった時に、どちらかというと『学び』なんですよね。『合う』ということはあまり意識していない。だから、たとえば、実は私たちがやっているのも課題解決的学習なんですよね。

対話する学び
 SRT先生がやっているのも、課題解決的な学習をやっておられるんですよ。 たとえば、3万人というが、実際には何人観戦していたのかなという課題を与えていたんですよね。まず、問いを持って、それに対して自分の考えを持ったわけですよね。自分の考え方をもって、そして仲間と話し合いをしているわけですよ。ここでは、子どもは自分との対話をやっているんです。自分はどうするかという対話をしてるわけですね。そして決めたわけですよね、こうやって短冊に書いて、そしてこれをみんなに示したんです。
 そして今度は、仲間で、なぜそうなのかという他者との対話になったわけです。
 そしてもうひとつ最後に、これ、表現というのがあるわけです。まあ、ここは表現入っているわけですけれど、最後に、自分たちの納得というのかな、えーと、(黒板に書いて)猿田先生の授業というのはこういう構造になっていたんじゃないかなって思います。でも、ここのところはまだ行けなかった。時間がなくて。

対象との対話、他者との対話、自己との対話
 で、『学び』ていうのは3つあって、こういう『テキストとか対象との出会いと対話』というんですよね、学先生は。
 課題からいろんな考えが出てくる、そういう時間がまずある。テキストとの対話。これやっているんですよね。
 これが実はほとんどないんですよ。普通の学校では。先生がわかりやすく説明していくということでやっていますから。
 で、これがほんとは大事なことで、この中で子どもたちがですね、すごい言葉を発しているわけですね、この中で、ここで「スッキリ」、「ちょうど」、「いいやすい」、「わかりやすい」、それから、「近い」、「離れすぎ」、「離れてない」。 ものすごいたくさんの言葉を出すんです。
 メルロ・ポンティという人がいるんですけれども、この人が言葉には二種類あるというふうに本の中に書いている。ひとつは、こういうのは書き言葉というんですけれども、書き言葉と話し言葉。これが第1の言葉なんです。話し言葉とか書き言葉には表情が何もない。
 だけれども、こういう言葉を見た時、数学では記号ですね、記号を見た時、社会では資料を見た時に、自分なりに考えますよね。それは、第2の言葉、これをもっと大事にしなさい。 これは第2の言葉で、今生まれる言葉。これをもっと大事にしたらどうだろうか。だから、とっさに子どもたちは考えているわけですね。すごい言葉になって出てくる、これらを大事にしてほしい。それを大事にすることが、より豊かな対話が生まれる。豊かにものを考える、あるいはよりよく考えられる。
 だから『他者との対話』というのは、自分ではこうだと思っても、友だちの話を聞いていたら、ああ、あっちの方がいいよなあって考えることありますよね。これがよりよい学びをしているという、よりよく考えているというていうこと。で、その中で「あいつが言う言い方より、おれのほうがいいな」とか、また自分と対話しているわけですよ。で、最後に自分で決めていく。こういう学びが、対話をする学びでは出てくるということですね。 これもある種の問題解決的な学習ですね。

「自力解決」のワナ
 先ほど自力解決というのがあったんですけれども、中学校ではグループ活動というのをよくやってもらうんですけれども、できる子が、できない子を支えるということをやるんですね。そうすると、「この子はいつも友だちに教えてもらって、主体性がないじゃないか」と、こういう言い方をされるんですよね。何で自力解決しないのかと。
 こういうこと言うんですけれども、たとえば5分間ですね、ある課題を解きなさいといった時に、このできの悪い子は5分間、ただ、ずーっと座っているだけなんですよ。こっちの子は1分で終わっちゃう。
 そうすると、自力解決といいながら、この子は1分間で問題を解いてしまいますから、あと4分間遊んでいるんです。で、こっちの子は5分間ずーっと黙っている。そうすると、先生たちどう言うかというと、この子たちのためにヒント与えていますって言うんですよね。ヒントカードを与える?だから、自力解決ではないんですね。こうやってやりなさい、そしてこうやりなさいって導いていくわけですから。自力解決をさせたように見えるけれども、実は自力解決させていない。

他人に頼ること、きくことは主体的行為
 最も大事なことは何か。わからなかったら、友だちに、「わからないから、教えてください」って言うこと。わからないから、すっと隣にきく、「先生今何て言った?」これだけでもいいわけですよね。そのきくということが大事なわけです。それは主体的なわけですよ。自分から求めているわけですから、わからないことがあって、きいているわけですから。そのことの方が主体的なわけですよね。
 本当の解決というのは、自分がわからないから、わからないと言い始めた時ですよね。その時、子どもは学ぼうとしているわけですから。そこが一番重要なところですよね。
 だから主体性を育てようと思ったら、まず、あのー、わからないって言わない限り絶対教えてあげないということですよね。だけど、そうすると、さっきのように5分間ずーっと黙ってますから、だから、その子のところへ行って「わからなかったら、仲間にききなさいよって教えてあげるっていうことですね。
 今日はそういうことがごく自然にできていたということですね。だからできたらずっと続けていただきたいなということ。

授業研究会の話し合いの仕方、着目の仕方  ドラマを語る
 もうひとつですね、授業研究会のことで少し、この学校できてるんですけれども、授業見た時に、学びの文脈というんですけれども、最初から終わりまで流れているわけですよね。で、流れている時に私たちの話というのは、ある部分を切っているわけです。はぎ取っている。あるところだけはぎ取って、そしてこう、語るわけです。
 この時に、この学校の先生、すごいなあと思うのは「こういうことがありました」っていう、これ気づくというわけですね。さっきのことで言うと「○○君が泣いてしまいました」ということは、気づくわけですよね。
 で、それで終わったらダメなんです。それをとらえて、小野校長先生が、ドラマを語ってくれました。だから、「ありました」で終わったらダメで、自分なりにこういうドラマがあったんではないかと考えてやってほしいわけです。、これができないんですよね。すると、ただ、漫然と授業見てるだけ。
 ぼくは、ここ(教室の前、窓側)で見ましたけれども、何を見ているかというと、子どもの表情見てるんです、こうやって。ああ、ちょっと暗いなあとか、だから、この子とこの子とこの子はマルつけてあります。この子とこの子にも。見ればわかりますから。

目立たない子どもに目を向ける
 ところが、もっと大事なことは、そういう気がつく子はだれだって気がつくわけですよ。言葉にならない子がまだいるんです。そういう子どもに目を向けてやらなければならない。だから、「ありました」で特殊なだれでも気づく子がいるわけですよね、そうではない子にも目を向けてほしい。そういう子、小学校で、あの子静かだけど、手も挙げないけど、何を考えているか聞いてあげたいと。先生、声かけてほしいですね。で、学びの中心へ持ってきてあげる。
 ところが手を挙げている子どもだけ指してますと、そういう子どもは逃げ込みますね。意見言わなくたっていいわけですから。そういうことにも担任は目を向けたい。発言しない、顔の表情で何か学んでないなあという子ども、ちょっと暗い顔しているなあっていうような子どもを見る力を付けてほしいわけですよ、自分の中に。あの子はたぶん先生の発問わかってないんだとか、いや、あの子は今一生懸命考えているんだ、注目しているんだなあていう。同じく静かにしていても、深く考えている場合は注目するんですよ。表層的にパッパッパッパ手を挙げていても、小学校なんかそうですね、1年生なんかつられて手を挙げますから。で、指すと、「忘れました」(笑い)。 みんなが手を挙げるから手を挙げてしまう、そういう子かどうかは見ているとわかる。この子はパッと手を挙げたな、で、そういう子を指すと後で恥ずかしい思いをさせるということがあるんで・・・。

ドラマを語ったあと、子どもと子どもの関係性=社会的側面をどうするか
 まず、そういうドラマがある。もうひとつあるんですよ。これ、ドラマを語れるだけではダメなんですね。じゃ、どうするかということですよね。ここまで行かないといけない。これは、ふたとおりあるんです、私的側面で見るというのと社会的側面で見るというのと。
 今までの授業研究会では、ほとんど、社会的側面は見ておりません。さっきの○○君が泣いていましたと、そうするとほとんどその子のことは見ていません。で、上の方で、この授業の指導過程はどうだったのかということは見ていますよね、生徒の様子というのはほとんど見ていません。私たちの考え方は、これを入れてほしいということですね。
 これを入れていくことによって、不登校になる子を減らすとか、学びから落ちて行く子どもたちを早く救うことができる。小学校できちんと手当してくれると、中学校に来た時、もう、全然能力の差が激しくてですね、おれはもう勉強なんてやる気ないてやつがいるわけですよね。でも、勉強はできないけれでも、○○を学ぶのは楽しいなと思っている子は絶対についてこれるんですよね。だから、それ、小学校でつけていただけると・・・。
 ところが、従来の授業研究では、指導方法がどうだとか、発問の仕方がどうだとか、もっといい方法があるんではないかという話になっちゃうんですけれども。小学校の場合は、教科みんな教えていますからいいんですけれど、中学校なりますと、国語とか社会とかバラバラに教えていますから、こればっかりやっていると、なかなか話し合いができない。ぜひこういう考え方を取り入れてほしいと思うんですね。あ、5分延びてしまいました。すみません。

■「学び合う」という「合う」はですね、他者がいるということですね。これがないのはただの「学び」。「学び」もこういうことがない「学び」というのは本当の「学び」ではない。



(校長から)
 お礼の言葉というよりも、「学び合う」ということで最後締めくくってくださいましたが、学校の本質というのは、一人ひとり、バラバラに学んでいるのではなくて、子どもたちが集まってきて先生たちとともに学び合っているというところではないかな、「学び合う学び」ということは、まさに、学校の本質ではないかなというふうに、今お話を聞いてもですね、深く思わされました。今日は本当にありがとうございました。