雅楽のルーツはシルクロード?

現在のシルクロード

現在のシルクロード

 日本が西洋の文化と初めて接したのが、天文12年(1543)年といわれています。 これは、ポルトガル船が漂着して種子島へ鉄砲が伝わった年です。
 それ以来、海路によるヨーロッパとの交流が盛んになりました。 しかし、アジアの国々を通じての交流は、その遙か以前から陸地をわたってあったのです。
 それは、シルクロード(絹の道)と呼ばれている道です。 絹の道と呼ばれるこの道は、古くから東西を結んでいたのです。
 それを証明するものとして奈良の東大寺大仏殿の後ろにたっている 正倉院の宝物の中には、ペルシアのガラス製品、 螺鈿紫檀五弦びわ(らでんしたんごげんびわ) などが所蔵されており、螺鈿紫檀五弦びわには ラクダの背にまたがり四弦琵琶を弾いている(西域の人) が描かれています。
 また、その琵琶に描かれていた馬の鞍の毛皮が ラクダの毛皮であることも証明されています。 このように、シルクロードを通じて運ばれてきた文物が、 中国・朝鮮を経て、古くから日本の地につたえられていたのです。
 

中国、朝鮮との交流

 海を挟んで最も近い場所のあった中国大陸、朝鮮半島とは、遣唐使、 遣隋使が派遣されるずっと前から、様々な交流があったようです。 それは、『魏志倭人伝』に倭国からの使者が訪れた。 という記録が残っていることからも証明できます。
 また、中国の雅楽は、(紀元前202年〜220年)から各王朝に伝えられてきました。 この雅楽は、日本の雅楽と同じ雅楽の名で呼ばれてはいますが、 中国と日本の雅楽とでは、少し内容が違うようです。
 また、中国では、これ以外の芸術音楽を 俗楽 (ぞくがく)と呼びましたが、日本の雅楽は、 この中国の俗楽を集大成したものです。

*俗楽:雅楽などと違い民間に発達した音楽。例えば、琴や三味線・尺八などの音曲のこと

 天平勝宝四(752)年、東大寺大仏の開眼会(かいげんえ)のころ、 中国は、唐の時代でした。そのため、中国から伝えられた音楽は、 唐楽(とうがく)の名で呼ばれました。
 一方、朝鮮半島から伝えられた楽舞(がくぶ)は、当時の高句麗(こうくり)の名にちなんで、 高麗楽(こまがく)と呼ばれています。 古代から日本と朝鮮とのあいだに交渉があったことは良く知られていますが、 大陸の楽舞がはじめて日本へ渡来してきたものも、朝鮮からだといわれています。
 それを証明するものとして『日本書紀』に 允恭天皇(いんぎょうてんのう)の(453年)の時、 朝鮮の新羅王(しらぎおう)が、新羅(しらぎ)の楽人(がくにん)80人を派遣して 允行天皇の葬儀に参列していたということが記されています。 これが文献に見える、外国の楽舞が、日本へ来た最初の記録です。
 このときは、葬儀に参列しただけでしたが、 その後の 欽明天皇(きんめいてんのう)の15(554)年には、 朝鮮半島の百済(くだら)の楽人四人が来日し、先任者と交代しようとしたという記録が残されています。 交代ということは、すでに楽人が日本に滞在していたことが考えられます。
 ですから、この時代には、百済の楽舞、高句麗の楽舞が渡来していたと見てもよいのでしょう。 推古天皇(すいこてんのう) の二〇(612)年に、 百済の味摩之(みまし)という人物が帰化して、伎楽(ぎがく)を日本に伝えました。 伎楽とは、中国大陸の呉国(ごこく)に伝わる楽舞で、 そのため、日本では呉楽(くれのうたまい)といわれました。
 伎楽とは一種の仮面劇で、ものまねのような喜劇的な動作をしながら行進する芸能で、 寺院行事の際に行われていました。 しかし、時代が進むのにつれてやがて衰え、今は、伎楽面や伎楽に用いられた楽器が残されているだけで、 その舞振り(まいぶり)や、音楽の正確な姿は伝えられてはいません。
天武天皇(てんむてんのう)の十二(六三四)年になると、 朝鮮から伝わった三韓楽(さんかんがく)が演奏されています。 三韓楽とは、朝鮮にそのころあった三つの国のことをさしています。 したがって、このころには、朝鮮の新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり) の三国の楽舞が混ざったかたちで入ってきたことになります。
 このように、朝鮮をへて大陸の文化が日本に流れ込んできたのですが、 一方、遣隋使(六〇七年)遣唐使の派遣(六三〇年)などによって、 隋や唐の文化が、直接日本に伝わるようになりました。 政治的にも、大化の改新(六四五年)が行われて、中国の制度の影響が現れてきました。
 また、なぜかはわからないそうなのですが、このころから雅楽の中心となったのは、 唐楽(とうがく)でした。
 そう考えられる理由として 文武天皇(もんむてんのう) の大宝2(七〇二)年に唐楽が演奏されていますし、 大宝令(たいほうりょう)でもうけられた雅楽寮(うたまいのつかさ)に、 日本古来の和楽、朝鮮半島の三韓楽とならんで唐楽が取り入れられていますので、 そこから、それだけ唐楽が重要なものであったということがわかります。
 このほか林邑楽(りんゆうがく)(大昔のベトナム地方の楽舞)・渤海楽(ぼっかいがく) (古代、中国の東北部から、朝鮮半島北部にあった国の楽舞)などのアジア各地からも輸入され、 楽舞の内容は、きわめて豊富にそして多彩になっていきました。
 中国古代の芸能で、軽わざや、奇術(きじゅつ)、物まねなどに音楽をつけた散楽(さんがく)も、 雅楽寮の一部に取り入れられていたことがありますが、 一般の人々のあいだに広まっていくうちに別の道を歩み、のちの能・狂言の母胎となりました。
 このようなアジア各地の楽舞を源流とする渡来楽舞(とらいがくぶ)は、やがて、 日本化されて、唐楽中心の(左方の楽舞)と、高麗楽中心(右方の楽舞)の二つに整理統合されていきました。

左方の楽舞、右方の楽舞とは?


 日本の雅楽は、大きく次の二つに分けることができます。まず、日本古来の歌舞と大陸などを通じて 日本に伝わってきた楽舞とに分けることができます。
 また、大陸から伝わった楽舞は、 さらに二つに分けることができます。それが、左方の楽舞と右方の楽舞です。 これを左右両部制といい左方を唐楽、右方を高麗楽といいます。
 左方の唐楽は、中国の唐の時代の音楽を主体とし、またそれ以前の 南北朝や隋の時代の曲もあります。その他、林邑楽(大昔のベトナムの楽舞)など の曲も唐楽に編入されました。また、左方の唐楽には、音楽だけを演奏する 管弦 と舞を伴う舞楽があります。
 右方の高麗楽は、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり) から伝わった音楽のことです。これに、渤海楽(ぼっかいがく) (古代、中国の東北部から、朝鮮半島北部にあった国の楽舞) が加えられています。右方の高麗楽には、管弦の演奏法がなく舞楽だけです。 また、左方と右方では、楽器の編成が違います。 それについては、左方と右方の違いとは?で説明します。
 

日本古来の歌舞も雅楽に


 芸能の起源は、宗教儀式に始まるという説があります。 その説は古代日本にあてはまるものだと考えられています。
 それは、雅楽のひとつである唐楽(とうがく)や高麗楽(こまがく)が大陸からわたってくる以前から、 太古の日本固有の宗教歌舞があったという事実からです。
 また、日本の芸能史の始まりとしてよく引き合いに出されるのが、 天(あま)の岩屋戸(いわやと)の前で天宇受売命(あまのうずめのみこと)が舞を舞ったという、 『古事記』や『日本書紀』に記されている「故事」です。 この古い言い伝えは、大昔の日本の祭事や饗宴(きょうえん)の場で、 固有の歌舞を演じられていたことをうかがわせてくれます。
 そして、そのようなときの歌舞の歌詞が、『古事記』『日本書紀』『風土紀』『万葉集』 などの文献に残り、「こと」「ふえ」「つづみ」「すず」「かね」などといった、 やまと言葉の楽器名が、 各地の遺跡から発掘された埴輪<琴を持つ埴輪> 等によって確かめられています。
 これらによって、弥生式文化時代から古墳時代、 にも、楽器を使った演奏や歌舞があったことが考えられます。
 このような伝承を持つ日本固有の歌舞は、大和朝廷の確立とともに、 次第に整えられるられるようになり、平安時代になって、宮中のまつりごとのときの 祭祀楽(さいしがく)として成立しています。
 このほか、祭事や儀式のときの儀礼歌舞(ぎれいかぶ)として、東遊(あずまあそび)・大和舞(やまとまい)・久米舞(くめまい)・五節舞(ごせちのまい)などがあります。
 また、平安時代にはじめられた催馬楽(さいばら)朗詠(ろうえい)ものちには日本古来の 歌舞の一種に加えられるようになりました。 雅楽の中にしめる日本古来の歌舞も、とても多彩なのです。





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