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            3年1組  E.M

 

テーマ設定の理由

私は3月の研究旅行で、郵便の歴史について、東京にある逓信総合博物館で学んできました。

そのとき、飾られてあった江戸時代の飛脚人がかついだ箱などを見て、時代劇などでよく見かけ

る、この飛脚というものについて、とても興味をもったので、これについて調べてみようと思いました

 はじめに  〜通信制度の発達〜       

 日本の通信制度は大化改新後、大宝律令により整いました。全国7つの幹線道路にほぼ等間

隔で駅を設け、人や馬で手紙を運んでいました。江戸時代になると商業が盛んになり、手紙のや

りとりがますます多くなったため、手紙を運ぶ制度として飛脚が発達しました。

人々の手紙や、幕府などの書状をはこんでいたのが飛脚です。もとは家康の道中に従い書類な

どをはこんでいたのが飛脚の始まりとされています1590年、このように、各宿場で人馬を継ぎ替

えて情報を伝える制度として、徳川家康が伝馬(てんま)制を施行しました。

 1696年、手紙を届ける使者の口上と簡単な手紙で用が足りていた飛脚による通信も、

江戸時代も中頃になると、通信網の充実に伴って伝えるべき情報が増えたため、巻物を使った手紙

が本格的に使われるようになりました。

 飛脚を利用できた人々

飛脚ははじめ、庶民のための制度ではなかったため、特権階級の人や、裕福な人たちだけしか使

えませんでした。しかし、1603年、全国を統一した徳川家康が街の治水工事を始め、江戸に日本橋

が架けられました。そして、1604年、日本橋を起点として、五街道の整備が進められ、飛脚による通

信制度も、一部の人だけでなく、一般庶民の書状も送れるまでに発達を遂げました。 

 

  江戸時代の交通        

    江戸を中心とする五街道は、とくに重要でした。

 




 

 飛脚の種類 

継飛脚・・・幕府が江戸と京、大坂、長崎などと連絡をとるためにつくった、幕府経営の公用飛脚です。

江戸・大坂間を4,5日で走り、川留めにあった場合も最初に川をわたれるなど、特別のあつかいをう

けていました。

七里飛脚・・・藩直営の大名飛脚です。諸大名が国元と江戸屋敷や蔵屋敷との連絡につかっていました。

町飛脚・・・1615年、大阪の諸士がその家来を使って東海道の各宿場の人足や馬を使い乗り継ぎ役目

をしましたが、宿場の負担が多くなって、まったくの民       間の仕事になりました。肩に飛脚箱をか

ついでいて、かついだ棒の先には鈴がついていました。歩くとチリンチリンと鳴るので、町飛脚

がいるのをまわりの人に知らせることができました。また、江戸と京都、大阪の3つの都市の問屋がたが

いに連絡をとりあっており、江戸は定飛脚、京都は順番飛脚、大阪は毎月、2、12、22日の3回出発す

るため、三度飛脚とよばれ、早便でおよそ6日かかりました。手紙、現金のほか生糸、絹、農産物なども

あつかいました。また、町飛脚は継飛脚や大名飛脚にくらべて値が安かったそうです。           

   下の図には、江戸幕府の大切な文書をはこんでい る継飛脚が描かれています。ふんどしという走

りやすいかっこうをしていました。継飛脚の場合、二人一組となって、伝馬制によって幕府の文書や貨物

を街道を宿場から宿場へとリレーのようにひきつぎながらはこんでいました。夜は1人が御用提灯をも

ち、道を照らしていました。

 

             『富士百撰暁ノ不二』(葛飾北斎)




 飛脚の道中道具など


 江戸時代、紀州藩の用務に関係する文書や金品などをおさめ、道中を持ち運んだ箱で、桐材を使って

軽くつくり、下部には紐を通す金輪も付いています。紀州藩は、徳川御三家の1つで、葵紋を使いました。



紀州藩秘密文書送付箱

紀州(和歌山県)と江戸の間を、書状の往復にもちいたものです。この箱を桐油紙(とうゆがみ)などで包ん

で、七里次急便で送りました



紀州七里飛脚の提灯

 紀州の七里飛脚が使用した携帯用提灯で、たたむと小さくなる小田原提灯というものです。

 


 

飛脚引受証書  書状を引き受けたことを証明する覚え書きで、各飛脚問屋によって書式は異なります。                 


飛脚が着ていた服

 飛脚がふんどしだけでは寒いというときに着たものだと思われます。

飛脚問屋

 現在の郵便局のことで、正式名称は「定飛脚出所」といいます。書状や金子を預かって目的地へ届けること

を仕事としていたと同時に火災情報を発行する基地としての機能も備えていました。飛脚の組織には、その業

務の関係から各地の情報をすばやく伝達する能力がありました。幕府への火災情報注進にも使われました。


問屋場

 公用旅行者のために人足や馬、宿泊場所の手配、公用文書をはこぶ飛脚の管理など、運送の仕事の手続き

を行う事業所のことです。大名行列に備えて、問屋場には、馬100頭、人足100人がいつも用意されていました。


宿場町

 宿屋が置かれ、運送の仕組みが整えられた町のことです。大名行列の武士たちをはじめ、たくさんの旅人が

泊まりました。

 


 
御所野と飛脚の関係

 〜御所野にも飛脚は走っていたのか?〜

 建設省・東北地方建設局のホームページの、秋田の道路情報誌に次のような文章があり ました。

 本陣のあった戸島から三の渡りを越えて御所野坂にかかった。御所野は佐竹氏が着

いて以来、道中の便宜を図るため作られた村であった。

 秋田領北部は、特に川との付き合いが多く、「荷上場小繋間から道なし」という藤

琴川の徒渡りや米代川の渡船による一里の渡しがあった。参勤交代で津軽藩主は、こ

の難所を通過したことを、特に飛脚を使って国許に知らせる  ほどだったという。

 この2つのことから、ここ御所野にも飛脚が走っていたということがわかります。


 飛脚の終わり 

 明治6年7月、飛脚は禁止され、郵便事業は国営になり、料金も均一化されました。


 調査後の感想

 時代劇でよく見かける箱をかついで走っている飛脚について調べて、一番驚いたことは御所野にも飛脚が走

っていたということです。私のよく見る江戸時代の時代劇の舞台になっているのは江戸がほとんどなので、飛脚

は江戸にだけ走っているものだと思っていたので、大阪や京都、それに秋田の御所野にまで走っていたという

のは、予想外のことでした。

御所野を走っていた飛脚や飛脚の身分についてなど、もっと知りたいことがあったけれど資料を見つけることが

できなくて残念でした。

 このレポート作成を通して、パソコンの使い方を学び、分からないところを友だちと教えあったりと、協力して作

業をすることができたのでよかったと思います。

  

 

※参考資料 

 ・郵便制度の発展

 ・飛脚問屋の世界

 ・日本の文化の歴史・日本人は情報をどのように伝えてきたのだろうか

 ・飛脚の種類

    (http://www.iptp.go.jp/museum/yusei/tsushin/tsu03.html)             

 ・建設省・東北地方建設局・秋田の道路情報誌              

    (www.th.moc.go.jp/laroute/index..html)                 

 ・災害情報と飛脚                            

   (http://www.iptp.go.jp/museum/history/siryou/21.html)           

 ・NTT東日本:東京コミュニケーション史                

   (http://www.ntt-east.co.jp/tokyo/access/komi.html)

 ・通信白書f o r K i d s :メディアミュージアム:歴史館:郵便とその歴史、郵便の  歴史

   (http://www.kids.mpt.go.jp/museum/history/3/01.html)

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