外旭川村の歴史
◎外旭川村の起こり   約400年前の「秋田合戦」の中に「八柳村」の名が見えるのが、記録に 表れた郷土の最初です。「神田」や「八幡田」の地名は、現在の税金に相当する租米を神社に納める ことに定められた農村を言います。 「神田」は旧寺内村の「古四王神社」、「八幡田」は同じく寺内村の「両津 八幡」に関係を持つものと考えられています。 秋田城が天平5年におかれた後、出羽の北の入り口が開発されたと思われ ます。
◎天長の地震  「天長の地震」(天長7年正月 西暦830年 M7・4)によってそれま で高清水の岡の東側を流れていた秋田の大河は、山崩れのために、ほどんど 流れをせき止められ、現在の雄物川の位置に変わりました。それによって外 旭川は、はじめて田畑による生活舞台が決定づけられました。 昔の書物には「笹岡村の谷地には昔入江があった。『網手崎』といって大 船が出入りする大きな港であった。 飯島村まで一面に通る入海だった」と記されています。 鯨と鮫の歯の完全な化石も出土しています。
◎あさひ川   久保田に流れる川を仁別川という人がいたり、また泉川という人がいたり で定まった名がなかったので9代義和(よしまさ)公が名前をつけるように 言いました。 儒学者の那珂通博(みちひろ)は「旭岳から流れてくるから旭川がよいの ではないでしょうか」と言うと、義和公は「歌にも、詩によし」と褒めたそ うです。 それから旭川と呼ばれるようになりました。 外旭川は、旭川の外側の意味をもっています。

古くから伝わる話
(1)二つ森   ひょうたんをたおしたような形の高い方が約10メートル、  低い方が約 7メートルの森です。 男鹿山の高いのに驚いた鬼がこれに劣らない山を造ろうと 決心して、ある晩二匹の駒にたくさんの土を積んで遠方から運んできました。 ところが途中で家々の鶏が鳴き出したのです。さあ大変。明 るくなっては困るというので土をそこへ捨てて山を越えて逃 げていってしまいました。 その土で「二つ森」ができました。二匹の駒が山の中ほどで石に化けたというのが、今の白駒、黒駒両社の由来で、鬼が逃げ越えたので「鬼越(おにごえ)峠」の地名になったそうです。

現在の二つ森です。地域の憩いの
場になっています。
(2)穴 堰(あなぜき)

      
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 寛永元年(1624年)、初代秋田藩主佐竹義宜が直接家老梅津主馬政景に工事開始を命じ、貫通した穴堰は、「古穴堰」と呼ばれて今は遺棄されてしまっています。大量の用水を必要とするため、後世に新たに設けられたのが現在使用されている穴堰です。もともと、外旭川には、村の東の村境に面積40町歩の溜池があって、これから水を引いて、田地に灌漑(かんがい)していました。その水量は足りなくて、旱魃(かんばつ)をこうむることが多かったのです。 これを見かねた渡部斧松は、神田の長百姓九右衛門という者に教えて、旭川の上流から水を引く計画を立て、村界に長さ200余間のトンネルを掘り始めました。ところが、九右衛門は、この工事を完成させることができず、翁に依頼してきたので、翁は自ら人夫を使って、わけなく完成させ水利を通じさせました。


穴ぜきのある鬼越峠は道路改
修され現在は通行できません。
(3)信仰の固い民俗   外旭川には古い昔から寺内とともに、鳥獣(四足、二足)の肉を食べない禁断と、正月の潔斎の  固い信仰物忌みの伝統がありました。(潔斎とは神や仏に祈る前などに肉食をやめたり、水浴した  りして心身を清めることです。)   昔から農家で鶏を飼った時は、この卵を一定の場所に貯えておき、買い出しにくる卵買いにでな  いと売りませんでした。売ったお金は、けがれのあるものとして普通の財布に入れることはしませ  んでした。別に貯えておいて、食べ物でない、たとえば灯火用石油などを購入しました。